EA三国志2005 -4ページ目

へたれ

久々に帰宅してからのブログ更新。


私はいつも会社から暇な時間を見つけて会社からブログを更新しているのだが、マーケットの悪い中、幸いにも忙しい・・・・。


実は私には変なジンクスがあり、土曜日の大和三国志でへこむような死にざまをすると、次の週の仕事は好調なうえに忙しくなる・・・・。


ま~参加した人はご存じのように先週はへたれな死に方をしたのであるが、今週は仕事が月曜から大忙しで恐らく今週はかなり忙しいので夜の更新をしている次第である。


ちなみに話は変わるが、家に帰ってニュースを見るなり驚いた。福田総理辞任。ま~すでにマスコミには叩かれているだろうがやはり印象は無責任だな~と思ってしまう。


いろいろな理由はあるのだろうが、サミット、自分の内閣、北京オリンピックの出席とイベントを一通りこなしたので後は続けても公明党の存在もうざくなっているし、世論も厳しいだけだし辞めるか~って安易に考えてるんじゃないだろうか・・・・と思ってしまうのは福田総理に良い印象がないからだろうか。


前阿部総理にしてもそうなんですが、途中で首相の座を投げ出すのですから、さらに責任をとって議員辞職は考えないのでしょうか?首相の座ってそんなに軽いものなんですかね?


ま~政治のことは詳しいわけでないのでそんなこと言っても仕方ないか・・・。さて、会戦録。どへこみ会戦録なので短いです。



呉侵攻戦

蜀12VS呉9の戦い。


兵糧で負けているので侵攻。蜀の本隊を発見し蜀将を追い回す。追い回すものの一つも攻撃が当たらない。当たらないので当たるまで追い回す。


敵の本隊の中まで追うとパラを入れられたので、APBを発動しようとするが動かない。あっちゃ~~動かないよ・・・と思い敵に殴られるのを待つ。


殴られたので動こうとするが連続パラ。あ~~蜀のパターンだった・・・と思いAPBを発動するが動かない・・・。ん~~と思っていると周りを囲まれるが取りあえず一発殴られたら赤POT脱出と思っていたところ死亡・・・。


あ~~死んじゃったorzと思い、IRCに報告


















































兵糧死亡@
































は~~やっちゃったな~と思い、戦況を見ていると、別CHで大将じゃなかったっけ?と突っ込みが入る。あ~~そういや今日は陸さんと袁さんがいないので大将だっけかな?と思った瞬間・・・・・


あ・・・・大将だよ・・・・・文ちゃんも大将だ・・・・・あぁぁぁぁぁ・・・・・・・





































呉将の皆さんすみませんでした!



































岡ちゃん、大黒の怠慢プレーに激怒というネットのニュースのタイトルを朝一で見てさらに凹みました・・・・。


腹が立つので今度こそリベンジと思って久々に総合HPを見て最終戦が今月末だと知ってさらに凹み・・・・。出張で最終戦出れない・・・・。

だしの素

ん~~~荷動きが軟調です。


一方では、このままじゃいかん!ということで売買船の仲介を試みているのですが、船を買おうとしている商社が素人なので動きが遅く頭が痛い・・・・。


売買船の場合、動く金額が大きいので仲介料は美味しいのであるが、動く金額大きいために、よく取引の土壇場になってもめます。


よって、あまり本腰になれないのですが、ま~頑張るしか・・・・・。面倒だな~・・・・。


さて、久々の月曜日以外の日のUP。


最近、気づいたのですが嫁の味噌汁が非常に美味しくなった。嫁は、汁物が好きで夕食が和食であれば必ず味噌汁を作る。


今までは、あまり気にしなかったのですが、ここ最近の味噌汁が非常に美味しい。


そこで、何故、味噌汁が非常に美味しくなったのか考えてみた。


1.味噌汁の具が変わった

今までは玉ねぎの具だとかが多かったが、最近は御揚げ+エノキの組み合わせが多い。味噌汁がエノキに絡んで美味いのと、やはり味噌汁は御揚げだな~。


2.味が濃くなった?

塩味が濃い方が好きな私ですが、前はちょっと甘めというか、塩分が足りなかったような・・・・。ところが、今は塩分がガツン!と効いている。


など考えて嫁に話してみた。



孫登 : 最近味噌汁美味しいね~


嫁 : そう?


孫登 : うん、味も濃くなって相当美味しいよ


嫁 : ふ~ん・・・・


孫登 : 味噌とか変わってないんだよね


嫁 : うん、でもだしの素が変わった


孫登 : ゑ? この間、シマヤのだしの素買ってきたけど


嫁 : うん、今までヤマキだったからね


孫登 : ゑ・・・・ずっとシマヤだと思っていた


嫁 : 私はシマヤ使わないわよ。ちょっと塩分高いし。


孫登 : へ~~、わしの家ではお袋がシマヤのだしの素使ってたな。


嫁 : つまり、今の味噌汁は











































おふくろの味ってことでしょ?


































孫登 : シマヤのだしの素がお袋の味って・・・・失礼だな・・・・・。


嫁 : でも、あなたのお父さん、うちの子供は

















































シマヤのだしの素で育った

































って言ってたじゃん。


確かに結婚したばっかりのとき、オヤジがそんなことを言ってた気がするが・・・・・だしの素を変えた途端に美味しく感じる俺って・・・・・・。


お袋の味がシマヤのだしの素の俺って・・・・・カワイソッス・・・・・。


今後、味について偉そうなこと言うの止めます・・・・。だってシマヤのだしの素を使っていたら美味しく感じる舌ですから・・・・。

謝謝

朝から色々と問題のある今週の出だし・・・・。今週、一週間はついていないかな・・・・・。


オリンピックも終わり、化学品の荷動きはどうなるのかと期待してマーケット感を色々と調べてみるが、どうも中国の需要はまだまだ戻らないようである。


ま~需要があるなら、昨日でオリンピックが終わるのを知っていた訳ですし、先週から荷動きが活発に動かないといけないもんな~・・・・。


ん~~中国市場の冷え込みが来るのか・・・・・それとも何だかんだと言いつつ復活するのか・・・・。


いまいち、市況が見切れない理由には原油価格の中途半端すぎる落ち込みがあるかと個人的に思っております。原油価格が下がってしまったために、過去の高い価格で買ってしまった会社はそれを転売しても下流製品に持って行っても赤字です。よって、今のタイミングでは原油価格を上がるのを期待してずっと待っています。


もし、原油価格が一気に暴落したら、逆にどうしようもなくって化学品関連では中国で倒産する会社が一気に増えるかと思います。そうなると、相当厳しい状況になるでしょう。


しかし、やはり原油の価格が異常だということを考えれば、早めに厳しい状況を迎えたほうが良いような気はします。


さて、そんな化学品の動きが鈍い中、今朝は荷主からクレームが入り、それを面倒ながら船主に繋げて解決。ま~船主も話の分かる人間がやっていたので何とか当面の問題は解決しましたが、まだまだ揉めそうだな~・・・。


で、船主には礼のメールを入れて最後に









































Xie Xie

































つまり謝謝(ありがとう)と送るつもりが、キーボードの位置がちょっとずれたのに気付かずに


































Die Die
































死ね死ねと送ってしまいました・・・・・。それも、同僚が突っ込むまで全く気付かない体たらく・・・・。


さて、月曜日ですので、そんなことは忘れて会戦録を。



呉侵攻戦

蜀13VS呉11の戦い


戦場は前回と同じく狭いコーブ。会戦が始まる前にはちゃんと縢胤官房長官には猫とか殺さなくてもいいからねと助言を。


開始と共に全軍南下。途中で一旦休憩をし、蜀が来る気配がないので再度、進軍。すると蜀の本隊を発見。


発券すると同時に軽く交戦。軽く・・・・あ~~~乱戦だ。ということで、何とか呉将とタゲを合わせて攻撃をしようとするが中々合わない。


そんな中、蜀のバックヒール係を発見したので毒を入れて妨害。そんなことをしていると、蜀将に追われるが蜀もタゲが合っている様子はなく、交わしながら妨害。


何とか蜀将を撒くのに苦戦しつつ妨害していると、他の呉将が気づいてくれたようで何とか落とす。


しかし、一方では呉将もバタバタと倒れており、文醜殿が死にかけているのを発見し、何とかヒールを飛ばす。だが、最後は無念にも目の前でバッタリと倒れる。


もう一人の大将である陸遜殿を探しヒールを入れるものの、非常に安定しておりヒールの必要性なし。


攻撃をしているのか、ヒールをしているのか、動きが完全にちぐはぐになったところで縢胤官房長官が追われているので助けに行く。しかし、これもタイミングの良いヒールを入れられずに見殺し・・・・。


正直言うと、私、ヒール入れるの滅茶苦茶下手ですわ!


で、呉将が減ってくる中でいよいよ私も狙われ死亡。もう少し粘れると思ったが逃げながらBH欲しいな~なんてことを思っておりました。

孫皓伝~其の肆~

269年十一月、先に述べたように陸凱が死去する。すると孫皓は荊州から陸路で、建安から海路を取らせ合浦で終結して交趾に攻撃をかけようとさせたが、建安経由の軍は李勖に率いていたのであるが、道程が難渋したことから、李勖は道案内にあたった馮斐を殺し、軍を帰還させる。すると、孫皓に取り入っていた何定が李勖はみだりに馮斐を殺害し軍を勝手に引き返したと上言をすると李勖の一家眷族は全て誅殺されたと書かれている。


さて、この何定であるが、元々は孫皓の給史で孫皓に取り入り出世をするのであるが、彼は悪政の引き金になる。江表伝には何定が李勖の讒言をしたのは、過去に何定が自分の息子を李勖の娘の嫁にしたいと持ちかけそれを断られた恨みからと書かれている。しかし、何定にそういう目的があろうとも一度失敗した過ちを経て国を挙げて交趾反乱の征伐に行った軍が引き返してきているのであるから李勖の責任は大きいし一家眷族の処罰は行き過ぎた行為であったとしても、李勖自身が孫皓の怒りをかって処罰されたとしても仕方がない事であろう。


何定は同年、兵士5千人を率いて長江を遡り夏口で狩りを行ったと書かれている。これに敏感に反応したのが夏口都督の孫秀で彼はその時、命の危機を感じて妻子や子飼いの兵士たちを連れて晋に亡命する。というのも、孫皓は血の繋がり近く夏口の兵権を握っている孫秀に不安を感じており、孫秀もそのことに薄々気づいていたとされている。つまり、孫秀は狩りの目的で5千人もの兵を率いた何定は自分の命を狙っている可能性があると思い亡命を決意するのである。


しかし、非常に謎である・・・・。孫秀は孫匡の孫にあたり孫家の中でも優秀な人物である。それが故に孫皓が不安に感じる部分があるのは分かるが、何定が5千人の兵を率いたぐらいでそれに恐れて亡命をするだろうか?彼は夏口の兵権を握っており何定がいきなり攻めてこようとも、それを撥ね退けるぐらいの実力はいくらでも持っているだろうし、意味もなく孫皓が攻めたとなれば呉の国力は更に弱まり孫皓は臣下より相当な批判を受ける。


もちろん、孫秀が万が一に備え自分の家族に被害を出さないための最善の方策として晋へ亡命したことも考えられるが、これは孫皓と孫秀の間で仕組まれたシナリオでは無いだろうか?孫皓は同じ孫家の人間で最も有能なる者は孫秀と理解していた。既に国力が衰えた呉はもし晋に降服するようなことがあれば、孫皓は処罰される可能性が高い。最悪の場合、他の孫家の人間も流罪等の処罰にあうであろう。それであれば、優秀な孫秀をこの時点で晋に亡命させる。そうすれば、晋は喜んで彼を迎え入れるであろうし孫家の人間が後世にもそれなりの地位でその血を残せることができる。


これはあくまでも孫皓という人物を良く考えた場合にこじつけた理由であるが、可能性が無いことは無い。なぜなら、孫秀の亡命はどう考えても自然ではないような気がする。


翌年の正月、孫皓は多くの人数を引連れて建業の西にある華里まで進む。実は孫皓伝を書くにあたって、この行為をどう解釈すれば良いのかが一番難しいところであった。というのも、どう考えてもこれは無意味な行動である。この件に関して書かれている江表伝の内容を見ると、文章の節々に孫皓の事を悪く思わせるような意図を感じられる。とは言え、孫皓の真意が分らないので正当化する説明も出来ない。


取りあえず江表伝に書かれていることを説明すると丹楊の刁玄は呉の人を誑かせようと使者として蜀に赴いたときに手に入れた司馬徽と劉ヨクの議論を勝手に解釈して天下を手に入れる荊州・揚州の王が東南に現れると言われ、寿春の城下では呉の天子が現れるという流行り歌がうたわれていると説明すると、孫皓はこれぞ天命だ!と喜び母親、妻子、後宮の女性等、多数を引連れて牛渚から陸路を取って西に向かう。しかし進むうちに大雪に会い、寒さのために半死半生で怒り狂い口々に敵に遭遇したら敵と一緒になって呉に刃を向けるのだと言い始めると恐れた孫皓はやむをえず都に戻ったと書かれている。


まず、この江表伝で怪しいのは刁玄が呉の人を誑かせようとしているということである。刁玄はその人格から孫登の賓客に任ぜられ、その後には孫亮の側近にもなっている。そんな人物がこんな行動をとるだろうか?更に、大雪に会い半死半生の兵士たちが露骨に不満を表し呉に刃を向けると言ったと書かれているが、恐れ多くも帝の前でそんな台詞を言えるだろうか?それに、大雪で寒いのは孫皓とて同じで彼が乗っている車に現代の車のように暖房がついているわけでもなんでもない。普通に考えてこの江表伝に書かれていることはおかしいのである。


更に江表伝には孫皓が華里まで行った際、万彧は丁奉や留平と内密に万が一、今、都を留守にするのはまずい。万が一のときは我々でも都に戻らなければならないと相談するとそれが孫皓に伝わる。それを快く思わなかった孫皓は毒酒を用意して万彧と留平を殺害しようとする。結局、二人ともそれに気づき死ぬことはなかったが憤りの余り、万彧は自殺し留平も一か月あまりで死ぬことになる。


この二つの江表伝を読めば、孫皓は勝手に踊らされて華里まで行き兵士の不満を聞き怯えて帰る。その後、万彧や留平の件を聞き、あいつらが兵士を焚きつけやがった!というこで毒を盛ったということであろうか?丁奉も殺害したかったが、彼の軍事力は怖くて手を出せなかったということだろうか?だが、どう読んでも孫皓を悪く仕立てようとしている悪意が感じてならない。正史三国志では万彧は譴責を受けてその翌年に憂死していると書かれているが、留平に関しては何も書かれていない。留平も征西将軍であり毒を盛られるようなことがあれば、亡命するなり、反乱をおこすなり、それなりの行動を起こしても良いものだと思われるのだが事実は分からない。


因みに何も書かれていない丁奉であるが、彼はこの年に死去する。彼がいつ生まれたかは定かではないが甘寧の下でも活躍したことを考え、赤壁の戦いにも参加したと想定するなら恐らく80近い年齢だったのではないだろうか?つまり彼は寿命で死んだと考えるのが普通であるが、彼は陸凱と共にクーデターを起こそうとしていた人物である。この華里の行動は実は彼が標的だったのでは無いだろうか?


一方の万彧であるが、彼が譴責を受けて死んだのが翌年で、その年に先に述べた何定も悪事が発覚して誅殺されている。陸凱死後の政治の筆頭は万彧であり、万彧は何定の件で譴責を受けて死んだのでは無いだろうか?

さて、話は戻るが華里御行が行われた年に呉は交州に攻め込む。激戦の末に何とか交州を取り戻し後方の憂いを取り除いた呉ではあるが、翌年、西陵の歩闡を都に呼び戻そうとしたが、これに対し歩闡は中央に呼び戻されて兵を奪われることを恐れ晋への投降を決意し叛旗を翻す。この反乱は呉にとっては絶体絶命の事態であったが、呉最後の軍神である陸抗の活躍により晋軍を退け反乱を鎮静化させることに成功する。


少し気になる部分があるが、実はこの歩闡の乱より4年後の276年、孫皓の親族である孫楷が晋に投降をしている。これは建業で施但が反乱をおこしたとき、彼は讒言により孫謙と孫皓に二股をかけたとされ孫皓より難詰をされていたが、276年に都に呼ばれた際に命の危機を感じて晋に亡命している。気になるのは歩闡の場合もそうであるが彼は都に呼ばれた為に反旗を翻している。実は万彧も中央から離れて巴丘の守備についていたことがあり、彼は中央に戻ってから譴責されて死んでいると言っても良い。都に戻る=死。これは偶然だろうか?


さて、歩闡の乱以降、呉は大きな軍事行動を取っていない。あるのは、277年に孫慎が汝南に攻め込み略奪をして帰還しているのと、279年の郭馬が反乱をおこしたときの鎮圧ぐらいである。それ以外、孫皓伝では孫皓の暴虐性のみが書かれている。


273年、陳声というものが孫皓の妾の讒言にあい首をのこぎりで切られその死体を四望山のふもとに棄てられる。274年、孫奮が天使になるのではないかという噂が流れると、孫奮の一族は誅殺され、その噂にかかわった人間も処罰される。276年、車俊と張詠が所得税を上納してないことで斬首。277年、張淑の悪事が暴露すると車裂きの刑にする。


陳声の場合は妾の讒言であるが、他の者は理由だけを見ると処罰されても仕方がないように思われる。ただ、車俊と張詠の場合は江表伝には彼らは税に苦しんでいる民の行動のためと書かれている。しかし、江表伝の場合、あまりにも孫皓を酷評している部分があるので怪しい部分が多い。いずれにしても、処罰の仕方があまりにも酷かったのでは無いだろうか?それが孫皓の人物像を悪くさせているのでは無いだろうか?


さて、265年に建国した晋ではあるが、15年後の280年にようやく本格的に呉に侵攻する。15年も晋から侵攻されなかったというのは呉としても運があったのだろうが、晋としては国内の情勢を落ち着かせるのに時間がかかったのもあるだろうし、呉という国が長江に守られた険阻な場所であることも理由にあるだろう。特に272年に歩闡が反旗を翻したときは晋にとっては呉攻略の最大の機会であったが、これを陸抗が完璧に退けているのは、陸抗自身の才能も当然ながら呉が要害の地であったためでもある。


280年、晋は一挙に6方面から呉に侵攻してくる。長江方面から侵入してくる敵に対して呉はそれなりに対峙ができたのであるが、全く防ぎ切れなかったのが蜀方面から長江を下ってくる晋軍に対してであった。西方面から攻め込まれた呉は晋の侵攻を防ぎ切れずに一気に壊滅する。その中で武昌を守っていた陶濬は建業に戻り、二万の兵と大船があれば蜀軍をまだ撃破できると献策をするが、その夜、全ての兵は逃亡してしまった為に孫皓は晋への降服を決意した。


280年2月15日、晋の王濬が先頭をきって建業まで軍を進めてくる。孫皓は自らを縛り、そして自分の棺を側に置いて降服の意を示した。彼は自分の死をもって乱世を終わらせる覚悟をしたといえる。しかし、孫皓は結局、処罰されることなく帰命侯の号を賜り、その4年後に洛陽で死去する。孫皓の降服により、魏、蜀、呉は歴史から消えた。


孫皓は降服する際に群臣たちに謝罪の手紙を書いている。その内容はこのような事態になったのは全て自分が間違った政治を行ったからであり、全ては自分の責任であり、群臣達には晋への出仕を拒むことなく自らの志を伸ばして欲しいというものである。自らを縄で縛り、死を覚悟し、群臣達に謝罪の手紙を書いていることから孫皓はただの暴君・暗君ではないのではないだろうか?という説があるが、その事実は現在の我々には分らない。

孫皓伝~其の参~

西への侵攻案が流れた年の十月に前の首都であった建業で事件が起きる。永安の山賊である施但が数千人の徒党を集め、孫皓の異母弟である永安侯の孫謙を脅迫して自分らの首領として担ぎ出し孫皓の代わりに皇帝に立てようと反乱を起こす。彼らは鳥程まで進むと孫和の墓陵にあった財産を奪っていった。父親に対する異常な愛情を見せていた孫皓にとっては一大事であったと考えられるが、この反乱軍は建業に着くころまでには一万人までに膨れ上がっていた。


しかし、この反乱軍は丁固、諸葛靚によって鎮圧される。反乱軍は敗北が濃厚になると散り散りに逃げだし、頭領として担ぎ出した孫謙も見捨てられてしまう。孫謙は一人、ぽつんと馬車に残っていたと書かれているが、恐らく訳の分らない内に脅されて担ぎ出され、最期は見捨てられてしまった哀れな人物である。当然、彼は後に孫皓に毒殺されてしまう・・・・。


いずれにしても、建業で起こった反乱は結局、孫皓が武昌に遷都したことが原因になってしまう。もちろん、この場所は長いこと首都であり治安も安定した場所であったと思われるので孫皓にとっても計算外の反乱であっただろう。晋に対して建業の安定は地理的にも必須であり、武昌にいても晋への侵攻が望めないとなれば孫皓の建業への再度の遷都もやむを得ない。だが、これは民衆に取っては更に負担がかかることになり、武昌への遷都を反対していた陸凱にとっても、それみたことかという結果になってしまう。


正に孫皓に取ってみれば悪い状況が続き立場を悪くするだけである。これらの背景は孫皓の政治・軍事に対するモチベーションを激しく下げたのでは無いだろうか?そして、彼は行き場のない気持ちを抱えて更に暴虐になってしまったのではないだろうか?


遷都の二つ目の理由である建業での反乱のあぶり出しであるが、漢晋春秋には孫皓は荊州には王者の気があり揚州の気を圧倒しているが故に建業では物事が順調に運ばないと言われる。そこで孫皓は武昌に遷都をし、荊州の貴族、名家の墳墓や連なった丘陵を掘らせて王者の気を鎮めようとした。すると、先に述べたように施但が反乱を起こしたので、孫皓は遷都の計が見事に当たったと考え一気に反乱を鎮めたと書かれている。


恐らくこちらの理由は後付けと考えられる。やはり、対魏戦略で遷都を行ったものの結局は事がうまく運ばず、それを表立たせないために反乱の事実を上手く使い、いかにも孫皓の読み通りであったように書かれているだけであろう。というのも、漢晋春秋には“宣伝していうには、天子が荊州の兵を派遣して揚州の賊を打ち破り、これまでの気を鎮めた”と書かれている。再度、遷都するのは実はこういう理由があったと言わなければ孫皓も顔が立たなかったのであろう。


さて、孫皓と陸凱の関係に注目をしたい。先に述べたように人材の少なくなった呉では陸凱に代わる有能な人物はいない。また陸氏は呉の四姓と言われるほどの有力豪族であるが故、人望もあり孫皓としては逆らえない人物である。ここでの関係がしっくりと行けばいいのだが、どちらが正しいかは別として明らかに二人の考え方は違う。本来なら陸凱はそこで孫皓を上手く洗脳するなり、譲るところは譲るなりして孫皓との関係を良好なものにしなければ呉の命運は短くなるだけである。


だが、残念ながら陸凱の人物像を考えると兎に角、孫皓を諫めていただけである。理由としては陸凱が自分の信念を変えない頑固な人間であったか、陸氏の立場は呉では相当なものであったか、陸遜が孫権から受けた仕打ちなどから陸氏が孫家から一線を引くようになったことなどが考えられる。陸遜がいなくなったものの軍権を持つ陸氏の勢力は相当なものであり、その上、何となく孫家とは関係がぎくしゃくしており、孫皓としては皇帝であるものの彼に逆らえることはできずに欝憤が募る一方だけであったのではないだろうか?


陸凱伝には更に驚くべきことが書かれている。それは、陸凱が266年12月、即ち彼が左丞相に就任し、孫皓が再び建業に遷都をした年であるが、陸凱は丁奉、丁固らと謀り孫皓を捕えて彼を廃しようとしていたと書かれている。この件に関して陳寿は“次のような事件があったという者もある”と言っており、つまり真実は分からないと前置きしている。これが事実だとしたら陸凱はクーデターを起こそうとしていたことになる。


この孫皓クーデター未遂事件には二つの記述がある。まずは陸凱伝であるが、陸凱伝によると左将軍であった留平が兵を率いて儀仗の先導の任務に当たっていたことから、留平に孫皓捕縛の話を持ちかけた。しかし、留平はこれを拒絶し同時にこの話に関しては人には漏らさないと誓った為に計画は実行されなかったと書かれている。


もう一つは呉録に孫皓が宗廟に参詣するときに護衛をつけるので、その護衛を丁奉に任命して計画を実行しようとした。しかし、孫皓はこの人選が気に入らなかった為に留平が任命される。留平は平素から仲が悪く、陸凱の息子である陸禕がこの計画の話を持ちかけようとした際に留平が丁奉の軍営に野豚が入り込みこれは不吉なことが起きる前兆であると喜んでいたために、留平にこの謀を持ちかけるのは難しいと判断し計画は立ち消えになったと書かれている。


実際に陸凱がクーデターを起こそうとしていたかどうか真実は定かではない。しかし、陸凱と孫皓の関係の悪さは間違いないであろう。もし、呉が衰退していく状況で陸凱がクーデターを仮に起こしていれば彼は孫綝のように不忠、専横の臣として、汚名を後世に残すことになったであろう。どんな理由があろうとも賢臣は決してクーデターを起こすものではないと私は考える。仮にこの陸凱のクーデター未遂事件が真実であれば、陸凱という人物が果たして有能であったかどうか疑問に思えてくるうえに、呉に人材は全くいなかったと言えるであろう。


陸凱伝には孫皓の性格についても書かれている。それは、孫皓はその性格から他人が自分を見つめるのを好まず、群臣たちは誰も真正面から孫皓を見返すものがいなかった。しかし、陸凱はそれを諌めると孫皓は、陸凱は自分のほうを見ることは許したと書かれている。こういう記述からも陸凱と孫皓の立場が想像できるかと思う。


くどいようであるが、もう一点、陸凱と孫皓の関係で気になるのが陸凱の弟である陸胤に存在である。陸胤は二宮の変が発生して、孫皓の父親である孫和が廃嫡されかかった際に陸遜に諫止の上表を依頼している。そして彼は孫和と繋がりがあったために厳しい取り調べを受けるが最後まで孫和をかばっている。最初に書いたように孫皓の父親に対する愛情は異常である。そんな背景も孫皓と陸凱の関係に影響があるのではないだろうか?


さて、話を建業遷都以降に戻す。建業に遷都した孫皓はその翌年267年の春に大赦を行うと顕明宮を建てる。この顕明宮であるが、大きさは孫権が建てた太初宮の2倍弱で1.2キロ四方と書かれているので相当大きなものである。江表伝には顕明宮を建てるための出費は巨大な額にのぼり、陸凱らが必死で諌めたが孫皓は聴かなかったと書かれている。確かにこれは浪費である。決して褒められる行動ではない。


何となくであるが、武昌の遷都でやることが裏目に出た孫皓はこの頃には半分きれ気味だったのではないだろうか?もしくは後ほど出てくるが、何定という愚臣が実は欝憤、落胆していた孫皓の心の隙間に付け入ったのがこの頃では無いかと私は予想している。いずれにしても、呉の国力を考えると顕明宮の建設は客観的に見ても無意味である。


顕明宮を建てた翌年、孫皓は東関に出陣し、丁奉は合肥まで軍を進める。この戦果は全く意味のないものになってしまうが、今まで陸凱に抑えられてきた気持ちを堪え切れずに出陣したというところではないだろうか?というのも翌年、その陸凱が死去していることを考えれば陸凱はその頃に体調を崩していたことも考えられる。


更に同年、孫皓は反乱の起きていた交趾に兵を向けさせるが逆に大敗してしまう。これは孫皓にとってもショックであったと思われる。まず、交趾の反乱であるがこれは263年に起きている。つまり呉はこの反乱を5年間も放っていたことになる。そして、交趾の反乱は呉にとっては一部の地域の反乱にも関わらず散々に打ち破られている。この戦果はいかに呉が弱体化しているかの表れであろう。

孫皓伝~其の弐~

孫休の跡を継いだということもあり、孫皓は、まずは無難な人事を行っている。しかし、それはあくまでも表面上のことで、孫皓は自分がしっかりと皇帝の座に就いた時、旧体制を変えて一気に人事を変える野望を持っていたと私は思う。


孫皓が皇帝になってまず行ったのは父親である孫和に文皇帝という諡(おくりな)をしたという。孫登死後、確かに父親の孫和は皇太子にはなった。しかし二宮の変で失脚し皇帝にならなかったことを考えると、この行為は間違っている。更に、これは余談となるが、孫皓は呉書の撰述を行っていた韋曜に対して孫和の本紀(帝王の記述を記したもの)を立てたいと要求している。当然、韋曜は孫和が皇帝となっていない為にこの要望を撥ね退けたが、この為に韋曜は孫皓に恨まれ命を落とすことになる。


いずれにしても、孫皓の父親に対しての愛情は異常であるといえる。例えば、彼は父親を鳥程の明陵に葬ったのだが、その墓守にかなりの数の人を付けている。更には孫和の廟を作り清廟と名づけると、その後は狂ったように礼拝を続ける。皇帝になれなかった父親の無念を晴らすためにここまでするか?というぐらい異常な行動を取っている。


さて、正史三国志の孫皓伝では孫皓が皇帝の座に就くと粗暴で驕慢となり、肝っ玉が小さくて執念深く、酒や女色を好んだ為、濮陽興と張布は彼を皇帝にしたことを悔やみ、万彧がそれを孫皓に讒言したので濮陽興と張布は殺害されたと書いてある。


これだけを読むと孫皓という人物がどうしようもないように見える。だが、一方で濮陽興伝や他の伝に登場する濮陽興、張布という人物を考察すると、彼らこそ孫休が皇帝だった時代に自分たちの権力を好き放題に使い周りを失望させている。つまり、普通に考えれば、彼らはいずれ失脚するか処罰される立場であり、孫皓が彼らを誅殺したことに関しては凄く自然であると言える。それにも関わらず何故、孫皓伝ではいかにも孫皓の性格の問題から濮陽興と張布が殺害されたような書き方をするのであろうか?


濮陽興と張布の殺害に関して孫皓は最初から呉の内政を腐敗させた原因でもあるこの二人を排除するつもりであったと思われる。しかし、皇帝になるには彼らの後押しも当然必要となり、皇帝になった際、まだ権力を持っている彼らにはそれなりのポストをアレンジし目を欺き、皇帝の立場に落ち着いたところで二人の排除、殺害を実行したのだと普通は考えるべきで孫皓伝の書かれている彼の人物像に信憑性が無いのではないかと疑いたくなってしまう。


江表伝には孫皓は即位した当初、思いやりある詔を発して士人や民衆たちの生活を憐れみ、官の倉庫を開いて貧乏な人々を救い、規定を定めて宮女たちを解放し、妻のない者たちにはそわせてやり、御苑で飼われている鳥獣を逃がしてやり、当時の人々は明君だと讃えたと書かれている。これは今後の考察にも関わってくるが、孫皓の暴虐性は基本的に臣下に対してである。民衆に対しては数度の遷都を行い、恨まれている部分もあるかもしれないが、多くの大赦も行っており民衆の反感は左程無かったのではないだろうかと思っている。とは言え、陸凱伝に書かれているように決して民衆は裕福な状況では無かったであろう。


さて、一方の魏であるが蜀の平定後、司馬昭が魏の相国となり呉の降将である徐紹と孫彧を使者に立てて自分の手紙を携えさせて呉に降服するように脅迫している。魏と呉の国力の差を考えれば、司馬昭としては一気に呉に攻め入るということもあり得たと思うが、平定直後に鐘会の反乱も起きたことから恐らく内政重視の路線をひとまずとったのであろう。


この手紙を受け取った孫皓であるが、遜った態度を見せて降伏するとは言わずに和親の意思を伝える返書を紀陟と弘璆に携えて洛陽に向かわせた。一方で使者としてきた徐紹であるが、彼は呉に送り返され魏のことを称賛したために誅殺されたとされている。孫彧に関しては何も書かれていないが、恐らく同様に殺されたのではないだろうか?はっきりと背景が分らないのだが、孫皓が臣従の態度を見せたので彼は呉に送り返されたのだろうか?だとしても、一度呉から逃げ出した武将なわけで殺されてしまうのも仕方ないような気がするし、こういうことから考えると魏に取ってはどうでも良い武将で呉の怒りの矛先をぶつけさせる生贄のようなものだったのでは無いだろうか?


魏に行った紀捗等であるが、曹奐、司馬昭を相手に堂々とした受け応えをして呉にはまだ人物がいると彼らを感心させている。だが、司馬昭はその8ヶ月後に死去をしてしまう。そして司馬昭の死の翌月、晋は魏から禅譲を受け、新王朝を開くことになる。歴史から魏、蜀がその姿を消し、呉だけが残ることになる。


同年の9月に孫皓は首都を建業から武昌へ遷都している。これは西陵の歩闡が上表したのであるが、この遷を行ったのには2つの理由が考えられる。一つは、魏に対する理由。もう一つは建業の反乱のあぶり出しである。個人的には対魏の理由が一番高いと思うが、漢晋春秋には建業の反乱のあぶり出しの理由も書かれているのでこれも見逃せない。いずれにしても、暴君というイメージが強い孫皓であるが故に、この遷都は彼の我ままによるものだと思われがちであるが、孫皓にはそれなりの理由があって遷都を行っていると私は信じている。


まず一つ目の理由である対魏であるが、武昌の位置から考えると間違いなく西方面からの魏(後の晋)への対抗策であり、孫皓の意志と歩闡の意思が合致したのであろう。というのも、呉は何度も北方面の合肥への攻撃を試みているが一度も成功をしたことがない。国力が衰えてきている中で合肥への侵攻はほぼ不可能だと思われる。だが、西方面(所謂、蜀の地)であれば、まだ政情的にも安定もしておらず攻略の可能性があると考えたのでは無いだろうか?


しかし、この遷都に異を唱えた人物がいる。陸凱である。陸凱は鎮西将軍の立場におり、荊州の牧の職務も兼任していた。つまり彼も西方面に関しての事情に精通しているのだが、彼はこの遷都は長江下流一帯の人にとっては長江を遡って物資を納めなければならず民衆にとっては負担が増えるだけであると説いた。つまり、彼は遷都をして外に目を向けるぐらいであるならば内政を充実させるべきだと言っている。


陸凱の言い分は正論である。考えてみれば同じ親族の陸遜も孫権には内政を充実しろと口すっぱく言っていた。国力の充実は確かに必要である。特に陸遜が孫権に言っていたころはまだ蜀が顕在であり、呉も国力をつけてきていただけに当然のことだといえる。だが、孫皓の時代になると、晋の力は圧倒的であり、呉は度重なる腐敗政権で人材を失い、国力が弱まっている。


どれだけ呉が国力を蓄えようと必死になったとしても、その命運は明らかに風前の灯である。つまり、国力を蓄えて僅かでも生き永らえるか、可能性はほとんど残っていないが最後の賭けとして領土を増やす機会を狙うか、それだけの考えの違いであったと私は思う。結局、呉は滅びることになるため孫皓の遷都は結果として呉の終焉と時を早める愚策だったかもしれないが、この遷都の判断で孫皓を愚帝と結びつけられないであろう。


さて、武昌に遷都を行った翌年、孫皓は丁忠と張儼を文帝(司馬昭)の弔いの使者として晋に送る。張儼はその帰路の途中で死亡してしまうが丁忠は呉に戻ってきて孫皓に謁見すると武昌の北方には防戦の備えがないため、今、不意をうって弋陽に攻め込めば簡単に手に入れることが出来るであろうと説いた。


当然、西への展開を目論んでいた孫皓にとっては絶好のタイミングであり彼は群臣たちの意見を求めた。しかし陸凱は、晋は確かに好を求め今は停戦をしている状態であるが、国力の差は歴然であり弋陽を落とすことがあったとしてもそれはたまたまの事であり何のメリットも呉には無いと侵攻には反対する。一方では劉纂のように可能性があるのであれば考えるべきで間諜を送って敵の事情を調べるべきだという臣下もいた。


孫皓としては劉纂の意見を取り上げたがったが、蜀が平定されたばかりであったため、すぐにはそれを実行せずにいると、そのうちこの話はうやむやになったと孫皓伝には書かれている。


このうやむやとなった背景が気になる。孫皓伝には劉纂の意見を取り上げたかったとはっきりと書かれている。つまり、孫皓としては間違いなく晋に侵攻をしたかった。これに陸凱等が反論するのは仕方のないことだとしても、皇帝の意思が交戦であるならば、話がうやむやになるのはおかしな話で侵攻することに反対ならば臣下は皇帝を納得するまで説得するのが筋である。


何となくであるが、この頃から孫皓と陸凱の関係は悪化をしてきたのではないだろうか?孫皓の立場からしてみれば、皇帝としての自分の気持ちをうやむやにされるような状況なのであるから決して愉快な状況では無いだろう。しかし、陸凱に代わる有能な人物も残っていない事情もあり陸凱には逆らえる立場にない。もし、孫皓がこういうことから自分が蔑ろにされていると感じるようなことがあるのであれば、彼の暴虐性が激しくなってきたとしても同情する部分はある。

孫皓伝~其の壱~

39回目の呉将紹介である。かなり久しぶりです・・・。



今回、紹介する呉将は呉の最後の皇帝となった孫皓である。大和三国志では諸葛靚殿が元気の無い呉国を励まそうと愛着のあった名前を捨て、新たに孫皓の名前を選び皇帝として国を引っ張る決意をしてくれた。



しかし、この孫皓であるが三国志の世界においては暴君として知られているだけに善として書くのが非常に難しい。過去に悪女として名高い孫魯班を善の立場に置き換えて書いたことがあるが孫皓に関してはほぼ無理である。



出来るだけ孫皓を善の立場として書いていくつもりであるが、かなり強引な考察になることも多々あるかと思います。その点はご容赦ください。



孫皓、字は元宗である。



孫皓は孫権の孫で、孫権の三男となる孫和の息子である。孫和は孫魯班伝にも書いたように二宮の変に巻き込まれ失脚してしまった人物である。孫皓が生まれたのは242年で父親の孫和が皇太子の立場から失脚して庶人に身分を落とされ長沙に流されたのが250年であるので、8歳の時から孫皓は不遇な時を過ごすことになる。



更に、252年には孫皓より一歳若い孫亮が、孫権が死去したことにより呉国の皇帝となり、253年には父親の孫和は孫峻に脅され自殺をすることになる。幸いにも母である何姫は自分の息子の行く末を案じ孫和と共に自殺をすることは無かったが、孫皓の立場になって考えると悲劇の連続である。そして、この幼少の頃の悲しい体験が後の残虐な孫皓の人格に影響したのではないかという説も存在する。



さて、孫皓が長沙に流されている間、孫峻、孫綝らの専横政治により呉の内政は悪化を辿る一方で、更には魏への無謀な侵攻が行われ激しく国力が落ちる状態となる。孫権の後を継いだ孫亮も孫綝により、その身分を廃され、次の皇帝となった孫休は聡明な人物であったものの、学問に没頭するあまり濮陽興、張布らに勝手に政治を行わせることになり、やはり呉は衰退していくばかりであった。



一方の孫皓であるが、孫亮が廃され孫休が皇帝となると少しずつ運が上昇してくる。彼は孫休から鳥程侯に封じられる。つまり庶人からいきなり爵位を持つ身分へとなる。孫休が何故突然に孫皓に爵位を与えたか疑問であるが、孫休のお陰で孫皓は実は皇帝への道を歩み始めることになる。



更にこの頃、西湖の平民である景養というものが孫皓の人相を占うと、孫皓は必ず高貴な人物になると言い孫皓はこの占いを密かに喜んだが決して他言はしなかったと書かれている。平民に占い?と疑問を持つが、恐らくこれは孫皓伝の話を盛り上げる作り話では無いかと思う。



しかし大事なことは不遇であった孫皓の環境は大きく変わろうとしていたことである。それと、孫皓が決してこの占いの結果を他言しなかったということも大事なポイントであろう。孫亮のように失脚した後に天子になるという噂が流れ自殺を命じられたことを考えると、こういう慎重な態度も彼を皇帝に導いた要因の一つであろう。



また鳥程侯に封じられたことで、孫皓は当時の鳥程の令であった万彧と親交を持つことになるのであるが、この出会いは孫皓を皇帝にする最大のきっかけとなった。まさしく、鳥程の地は孫皓にとっては幸運の地になるわけである。



さて、鳥程に孫皓がいたころの呉であるが、2635月、交趾において呂興が反乱を起こし、これに九真、日南も呼応する。背景には蜀は魏から攻められ滅亡寸前であり、呉の国力は著しく低下し、交趾は魏を頼り呉の支配下から離れてしまう。呉の大きさから考えれば小さな土地での反乱かもしれないが、長江の北には巨大なる魏がおり、西の蜀は瀕死の状態なうえ後方にも魏が存在するという危機的な状況を迎えてしまう。



更にその五ヶ月後、魏から攻められ瀕死の状態の蜀は呉に使者を送り、助けを求める。そこで呉は丁奉や施績を魏に向かわせ蜀の負担を軽くしようとするが、時既に遅く蜀は魏に降服をすることになる。こうして、長かった三国時代は終わり、蜀という同盟国を失った呉は大国魏に対して単独で立ち向かわなければならない立場となった。



そんな状況からのストレスであろうか、孫休は蜀滅亡の次の年に倒れてしまう。突然、倒れ言葉がしゃべれなくなってしまう事を考えれば恐らく脳溢血になり麻痺状態となったのではないだろうか?孫休はいよいよ自分の死期が近づいてくることを悟ると丞相の濮陽興を呼び自分の長男に拝礼させ後事を託して他界した。



しかし、魏に対して同盟国を失い、南方では交趾の反乱を抱え、内政状態が悪化する一方の呉の状況で孫休の長男は皇帝になるのには幼すぎた。彼らにとっては幼帝を抱えるよりは、このような状況を打破できるようなカリスマ性のある、しっかりとした人物が皇帝になることが必須であった。



当時、左典軍の地位にあった万彧は彼が鳥程の令であったときに知り合った孫皓には孫策にも劣らない深い才知と見識があり、加えて学問を好み、法を遵守している人物であると政権の中枢にいた濮陽興と張布に進言をしていたこともあり、濮陽興らは孫休の妃であった太后の朱氏に孫休の長男ではなく孫皓を皇帝に立てたいと申し出る。



朱氏は、自分はただ単に孫休の妃であっただけで国家の為にいかに計ればいいか分かるような立場ではなく、呉の政治の中枢を握るあなた達が呉にとってそれが最善の選択肢と言うのであれば構わないと、孫皓が皇帝になることに関して全く反対をしなかった。



264年7月、22歳の時に孫皓は皇帝に就任する。父親が失脚して14年後のことである。



このように、孫皓は幸いにして皇帝に就任することになったが、果たして孫皓以外に皇帝に相応しい人物は呉にいなかったのであろうか?まずは、初代皇帝である孫権の血筋を本流として見てみると、孫権の長男である孫登には3人の息子がいた。孫璠、孫英、孫希であるが、彼らは既にこの頃には他界しており、彼らに子供がいたとしても幼すぎたであろう。



次に二男の孫慮であるが、彼は病弱で早世したので後継ぎはいなかったのかもしれないし、いたとしても名は残っていない。三男は孫皓の父親の孫和で、孫皓が長男であるので孫皓が選ばれるのは自然である。四男は孫覇で彼は二宮の変の際に自殺を命じられており、息子には孫基と孫壱がいるが、孫基は皇帝であった孫亮の馬を盗み獄に降されたような人物であった。孫壱にはこれといった話がないので彼は候補の一人として考えられたかもしれない。



五男には孫奮がおり三十前半の歳であったと考えられるが、色々と問題を起こしており、ろくな人物ではない。六男の孫休の息子は若すぎ、末子の孫亮に子供がいたかどうかは定かではない。こうして見ると本流の血筋では孫皓、孫壱ぐらいが妥当な線であろうか?



亜流で行くと、孫策の孫の孫泰は234年に死亡しており、この後の家系が分らない。孫翊の息子には孫松という素晴らしい人物がいたが、恐らくこの頃には他界しており、この後のことは分からない。孫匡には孫秀という孫がいたが、この孫秀は恐らく素晴らしい人物であったと思われる。後に彼は孫皓に狙われ、命の危機を覚え魏に亡命する。



こうしてみると、皇帝の候補となりえたのは、孫皓、孫基、孫壱、孫奮、孫秀ぐらいであった。孫秀は亜流の血筋であったため、最初から該当する候補にならなかったのであれば孫皓が皇帝になるのは自然であるし、多少、万彧が大げさに孫皓を評価していたとしても、孫皓には孫策と比べられるぐらいの器はあったと思われる。



こうして、孫皓は皇帝となると、年号を元興と改めて大赦を行った。この年、軍部では上大将軍の施績と丁奉を左右の司馬に任じて、張布を驃騎将軍に任じる。濮陽興はそのまま丞相の地位におり、その他、今後の鍵となる、陸凱、陸抗を見ると彼らは鎮西大将軍に昇進しており、魏の西からの侵入阻止の筆頭となっている。

猫殺し

土曜日はシンガポールの建国記念日であったため、いくつかのシンガポール企業は本日を振り替え休日とし、連絡が取りにくい状況である。


全ての会社が休日であるのであれば、連絡が取れないからと諦めがつくものの、中途半端に三割ぐらいの会社が休んでいるために性質が悪い。


おまけに仕事のリズムも悪く何となく朝から気分が乗らない。


もうすぐ、北島の決勝戦が行われるのでどこかでテレビを見て応援したいな~・・・・。そんなことばっかり考えて仕事に身が入りません。


さて、さっくりと会戦録。



呉侵攻戦

蜀8VS呉6の戦い。


戦地は狭いコーブ。お盆の影響であろうか全体的に人の集まりが悪い。呉も第三戦であったが、途中まで4人しかいない状況であった。


さて、軍師殿が残した秘策の書について文醜殿に聞いてみると、戦地が狭いため適当に乱戦。ま~個人的には一番楽しめるパターンです。


とはいえ、呉は乱戦にめっぽう弱い。だいたいのケースがじり貧となってしまう。人数も少ないことからタゲを指定して頑張ろうということになる。


兵糧で負けている呉は開始と共に進軍。敵影を見るとタゲ指定している武将を探すべく迂回。だが、蜀の攻撃は早く、いきなり呉将をガツンと襲ってくる。


タゲ・・・・タゲ・・・・必死になってタゲ指定の武将を探すが全く見つからず・・・・。戦況は完全に
































らんせ~ん

































そして押されまくってます。


仕方がないので、慌てて蜀将に攻撃をかけるが単発じゃ意味Nothing。兎に角、呉将について走り何とかタゲを合わせる物の、決め手がない。


決め手がないところで呉将が数名落とされてしまう。ここまでで、約3分。残りの武将はその時点で3名。


う~ん・・・・厳しいと思っていると2名の蜀将に追われる。しかし、こちらは2名。一緒にタゲを合せていた于詮殿は残りを引き連れて大名行列。


ん?あと一名どこよ!と思い、蜀将2名に追われて南下すると、官房長官殿が一人で佇んでいる。


やばい、落ちているかもしれないと思い、迂回して2名に追われる。再度気になったので、官房長官のいた方面に行ってみる。2VS2だったら儲けもので敵を落とせる可能性もある。


すると、官房長官は猫に火の玉をぶっつけている・・・・・。猫に・・・・・。


誤解を無くすために説明をすると、コーブの街は狭い上に生き物、NPCの数が多い。既に瀕死の呉はこれらの障害物で簡単に命を落とす。つまり、官房長官殿は生き残っている私の為に障害物を取り除いていたのである!!




































ナイナイ!





























戦況が決まったので遊びに走ったな!!


于詮殿も落ちたので、蜀将をひきつれて、その蜀将を官房長官になすりつける。無事に官房長官が死んでくれたようで、ほっと一息をつくものの生き残りは私のみ。


狭い戦地でなければ、逃げに逃げて敵に占領に入らせて遊びで総合CHで一騎討ちを呼び掛けとぼけて敵に突っ込んで自爆をしたかったのだが、戦地が狭すぎるせいですぐに見つかり追われ死亡。

ヒール

ポ~ニョ、ポ~ニョ、ポニョ、さかなの子・・・・・皆が耳に残ると言い始めると不思議なもので耳に残ります。思わず口ずさまないようにしなければ・・・。


石油化学品のマーケットは冬の時代が到来したかのように静かです。


会社に8時10分に到着して一通り週末のメールに目を通すものの、メールが少ない・・・・。ま~土曜日、日曜日の動きはそう無い物の、それでも金曜日のアメリカのマーケット、日曜日の中東のマーケット(中東は金曜日が我々の日曜日)の動きはあるのであるが、今週は全くない・・・・。


先週末、大手町の友人から電話がかかってきて話すと開口一番、“どう?マーケット死んでるでしょ?中国完全に死んでるでしょ?こりゃ~しばらくやばいね”と自暴自棄気味。


彼らトレーダーに取って物が動かないという状況は最悪です。それの仲介をしている我々も当然良くないのですが、彼らのダメージは大企業なだけにもっと大きい。


原油も120前半まで落ちてきたので多少8月からの荷動きは期待していたのだが、どうもオリンピックのせいという心理的な部分もあり中国の市場は8月も弱いままと予想されているらしい。


8月もしばらく石化製品の荷動きが悪いのであればそれはそれで仕方ない。この間言ったように、原油バブルが一気に弾ければよいかと思う。怪我をするのであれば、早い方が良い。


話しは大きく変わって、昨夜は全英女子オープンをテレビでみていた。日本勢で不動選手と宮里選手が好位につけていたからである。


女子ゴルフってほとんど見ないのですが・・・・・結構がたいの良い人が多いんですね・・・・・。あと、名前は忘れましたが、あれ?男子も参加してるの???って思わせるような女性がいたり・・・・。


しばらく見てたのですが、トップを走っていた韓国の女子プロが独走状態に入りかけたところで、見るのをやめました。何というのかな・・・・もう少し華があっても良さそうなんですが、全体的に

















































ぶっさいくすぎるでしょ







































見る気しないよな~・・・。


さて、月曜日ですので会戦録を。


呉侵攻戦

蜀11万VS呉10万の戦い。


呉軍は軍師殿が将来の嫁と思われる方に拘束されるということで、必勝の軍略の巻物を我々に残してくれた。しかし、女性にそんなに気を使うなんて何て情けない!


俺は大和三国志の軍師なんだから土曜日の22時以降は邪魔をするな!!とガツンと言ってやってくださいよ!


さて、その必勝の巻物を呉軍の皆であけて読むと、基本は蜀の性質、心理を読んだ上での作戦。さて、蜀が乗るか分からないが、呉軍はその巻物の作戦を忠実に行う。


開始直後、呉軍は陣に籠る。兵糧で負けているので当然、蜀は来ない可能性が高い。しかし時間が経てば蜀はじれて動くかもしれない。


建物内で待っていると姿を現すのは蜀斥候のみ。呉軍は戦いたい気持ちを抑えてそのまま建物で敵を待つ。しかし、時間は過ぎていき蜀が来ないと判断したので10分過ぎたところで一気に本陣から飛び出す呉軍。


敵の本隊とぶつかるとそのまま乱戦。残り10分しかないので逆転を狙い兎に角、敵の兵糧のタゲを全てとる。


その内、縢胤官房長官が5名ぐらいの蜀将に襲われているのを発見。必死にGHをキャストして追う。しかし視界に入ったと思いGHを開放すると届かない・・・・。再度GHをキャストして解放すると毒が入り無効・・・・。


全くへたれなヒールサポートで完全に見殺し・・・・。萎えるな~・・・・。官房長官すみません・・・・。


その後は兵糧マントを背負った蜀将を発見して攻撃するも、その蜀将が陣地に戻るとヒールをもらって即復活。く~~~、こりゃきついと思ったのでとことんヒール援護の蜀将を狙う。


しかし当たらない・・・・。当たらないどころか素手で武器を叩き落とされるし・・・・。武器を落とされたところで毒を入れて執拗にストーキングするが蜀将が戻ってきて数度と死にかける。そんでもしつこく攻撃する。


すると、蜀の兵糧を李異殿とマダムが落としたようで、逆転を狙って一人の兵糧のみに的を絞る。結構きわどいところまで追い詰めたが落とせず呉は敗北。


因みに、呉の大将の一人は落ちたようでそれに全く気付かずに無謀に大将マントを背負って蜀軍の中に数度突っ込んでいました・・・・。死んでたらシャレにならなかったな~・・・・。


来週は軍師殿が大将マント背負うので楽である。

ガックシ

七月は二月以来の絶不調な月です。その七月もあとすこで終わり。八月になれば少しは荷動きも変わるかな~と神頼みの状況。


一応、長期契約、売船の話は今も続けており、これらが順調に契約締結すれば非常に嬉しいのであるが、運気が下がっているというか・・・・何とも気合いが入らない。


こういうときこそ、気合いを入れるべきなんだろうけどな~。



さて、昨日の話。




孫登 : 何かさ~腹が痛いんだよね


嫁 : 病気?


孫登 : ん~~、内臓疾患だったりして。


嫁 : ええええええ!病気にならないでよ!保健とかないしお金かかるんだから!


孫登 : うん・・・・・、ま~大したことないよ


嫁 : どこら辺が痛いの?


孫登 : だから、腹だって


嫁 : ここら辺?(と言って脇腹を掴もうとする)


孫登 : そこはあばら骨だろうが・・・・・


嫁 : えええええええ!!


孫登 :???












































嫁 : あぶら骨なんてあるの?











































ねーよ・・・・。どうやったら、“あばら”と“あぶら”を聞き間違えるんだ・・・・。この言葉で腹の痛みはおさまったけど、頭痛が・・・・。


さて、月曜日ですので会戦録



呉侵攻戦

魏5VS呉11の戦い


兵糧は呉3で魏0。圧倒的な有利な戦いである。おまけに戦地は非常に狭い。大将も陸殿であれば非常に安心である。


久々に領土を手に入れるチャンスである。流浪の旅が長かったからな~・・・・。


さて、呉軍は人数が圧倒的であるので乱戦で敵を落とすことに。開始すると本隊は軍師殿の後を追って敵陣地方面に向かう。


敵影を発見して素早くタゲ取り。足場が悪いせいであろうか、敵もたまに引っ掛かるようでタゲ取りは割といつもより簡単であった。


だが、敵を追うと今度は足場の悪さに苦戦をする。敵を中々追い詰めることもできずに時間がたつ。そのうち、占領をしても構わないという命令が出たので占領に入るが、敵の弓部隊にめったうちにされ脱出。


時間も9分経ち占領時間が無くなったのでラストチャンスで占領に入る。それまで呉は魏軍を殲滅できずに振り回されている。兵糧勝ちでなく占領勝ちか大将落としで勝ちたい。


再度、占領に入るが、また同じく弓隊に狙われる。甘公爺さんが死にかけ脱出をするが、上手く李異殿(だったかな?)が入れ替えで占領に入る。


つぎに狙われ、入れ替わりに入る武将を待つが中々来ない。そうするうちにモータルを食らい、瀕死となったので脱出しようかな~と思った瞬間に死亡・・・・・。


ま~呉は勝ちましたが、こんな圧倒的な状況で死んでしまった自分にガックシきてそのまま落ち。情けないな~・・・・。